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- ■トリプル安
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北軍ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍は3個軍団を連れてきていた。ジョン・A・マクラーナンド少将の第13軍団、ウィリアム・シャーマン少将の第15軍団およびジェイムズ・マクファーソン少将の第17軍団だった。
南軍ジョン・C・ペンバートン中将のミシシッピ軍でビックスバーグ市内に入ったのは4個師団であり、カーター・L・スティーブンソン、ジョン・H・フォーニー、マーティン・L・スミスおよびジョン・S・ボーウェン各少将が指揮していた。
グラントは南軍が十分に防御を施す前に圧倒してしまいたいと思い、5月19日にストッケード・レダンに対する即座の攻撃を命じた。シャーマン軍団の部隊がルス・ヘーベル准将の旅団に属する第36ミシシッピ歩兵連隊からの銃撃や砲撃に遭って、接近するだけでも苦労した。このレダンの高さ17フィート (5.2 m)の壁に攻撃する前に逆茂木に守られた急な谷間や深さ6フィート (1.8 m)幅8フィート (2.4 m)の溝をこえていく必要があった。この最初の試みは容易に撃退された。グラントは防御を弱めるために砲撃を命じ、午後2時頃、シャーマン指揮下のフランシス・P・ブレア少将師団が再度挑戦したが、極少数の兵士がレダン下の溝まで到達するのがやっとだった。この攻撃はライフル銃の一斉射撃や手投げ弾が前後に投げ込まれる中で崩壊した[8]。
5月19日に北軍の攻撃が失敗したことはその士気に影響し、ミシシッピ州中で勝利を重ねてきた兵士達が感じていた自信をへこませた。この攻撃は損失が大きく、戦死157名、負傷777名となり、8名が不明となった。対する南軍の損失は戦死8名、負傷62名だった。士気の落ちていたはずの南軍は戦う意志を取り戻した[9]。
グラントは5月22日に再度攻撃を計画したが、このときはもっと注意を払った。まず十分な偵察を行い、大砲や海軍の艦砲で防御を弱めさせた。先導部隊には砦の壁を越えるための梯子が与えられた。グラントは長期間の包囲戦を望まず、この攻撃は広い防御線全体にわたって行われることになった[10]。
北軍は5月19日に損失を出して撃退されたにも拘わらず、その士気は高く、このときは略奪してきたもので十分な食料もあった。グラントが通り過ぎるのを見た一人の兵士が「乾パン」と言った。間もなく近くにいた全兵士が「乾パン!乾パン!」と叫び始めた。日経225
は5月21日の夜に乾パン、豆およびコーヒーを供出した。あらゆる者が翌日ビックスバーグが落ちるものと予測した[11]。
北軍は220門の大砲と川に浮かぶデイビッド・D・ポーター海軍少将の艦隊からの艦砲を使って夜通し市内を砲撃し、資産に与えた損害は大したことがなかったものの、市民の士気は大きく下げた。5月22日の朝、防御側は再度4時間にわたる砲撃を受け、その後午前10時に3マイル (5 km)にわたる前線に北軍が再度攻撃を始めた[12]。
シャーマンは今一度墓地道路を通って攻撃し、150名の志願兵(絶望的望みの分遣隊と渾名された)が梯子と板を持って先導し、その後をブレアとジェイムズ・M・タトル准将の師団が続き、狭い前線に大部隊を集中させることで突破できることを期待して、連隊を長い縦隊に組んだ。この部隊は激しいライフル銃撃に遭って撃退された。ブレア指揮下のジャイルズ・A・スミスとT・キルビー・スミス各大佐の旅団はストッケード・レダンの南端にあるグリーンのレダンから100ヤード (90 m)の尾根まで到達し、そこから南軍陣地に激しい銃撃を行ったが、ほとんど効果は無かった。タトルの師団は前進の順番を待っていたがその機会は訪れなかった。シャーマン軍団の最右翼、フレデリック・スティール准将の師団はミントスプリング・バイユーの谷間を通って敵陣に迫ろうとすることで午前中を使ってしまった[13]。
マクファーソンの軍団はジャクソン道路に沿った敵陣中央の攻撃を割り当てられた。その右側面では、トマス・E・G・ランサム准将の旅団が敵陣から100ヤード (90 m)まで接近したが、グリーンのレダンから側面攻撃を受けるFX
を避けるために停止した。マクファーソンの軍団左側面では、ジョン・A・ローガン少将の師団が第3ルイジアナ・レダンとグレート・リダウトに対する攻撃を任された。ジョン・E・スミス准将の師団がレダンの斜面まで辿り着いたが、そこで留まってしまい、暗くなるまで手投げ弾に身をかわしながら過ごし、最後は呼び戻された。ジョン・D・スティーブンソン准将の旅団はリダウトに対して2列縦隊でかなり前進したが、その用意した梯子が砦の壁を越えるには短すぎて、その攻撃も失敗した。アイザック・F・クィンビー准将の師団は数百ヤード前進したが、その将軍達が混乱した議論を始め、数時間も止まったままだった[14]。
北軍の左翼、マクラーナンド軍団はボールドウィンフェリー道路に沿い、ミシシッピ・サザン鉄道に跨って動いた。ユージーン・A・カー准将の師団は鉄道リダウトと第2テキサス三日月堡の占領を割り当てられた。ピーター・J・オスターハウス准将の師団は方形砦に当てられた。カーの部隊は第2テキサス三日月堡で小さな突破に成功し援軍を求めた[15]。
午前11時までに突破は起こりそうにないことが明らかとなり、シャーマン軍団とマクファーソン軍団の前進が失敗した。ちょうどこの時、グラントはマクラーナンドからの伝言を受け取り、マクラーナンド軍が激しく交戦していること、南軍は増強されつつあることを伝え、およびその右手にあるマクファーソンの軍団からの陽動攻撃を要請していた。グラントは当初この要請を拒否し、マクラーナンドにはその予備隊を援軍に使うよう告げた。グラントは、マクラーナンド軍団があまり交戦しておらず、マクファーソン軍団の方が激しく交戦しているという印象を持っていたが、それは誤りであり、事実は反対だった。マクラーナンドは追加の伝言を送り、それでは「星条旗が砦の上に翻っている」というふうに投資信託
に2つの砦を占領したと示唆する部分的に誤解させる情報が入っていた。またその前線をもう一押しすれば北軍が勝利を掴むという内容だった。グラントは再度異議を唱えたが、その伝言をシャーマンに見せ、シャーマンは自分の軍団に再度前進を命じた。グラントは再考し、マクファーソンにマクラーナンド軍団の応援のためにクィンビーの師団を派遣するよう命令した[16]。
我々の前線が出発し、我々の鬨の声が空中に消える前に、敵兵で完全に混雑していた前面の南軍砦から挑戦の鬨の声が上がり、我々の隊列に一繋がりのマスケット銃火が降り注ぎ、続いて前面と両横の砦や砲台から熄むことのない銃弾や砲弾が我々の前線に浴びせられて恐ろしい結果になり、われわれを目掛けた銃弾の嵐は破裂する砲弾と悪魔のような南軍の鬨の声と混ざり合い、ダンテの地獄絵以外比べようもないないもので、言葉では表せないような恐ろしいものだった。
?Daniel A. Ramsdell, Ransom's Brigade[17]
シャーマンはさらに2回攻撃を命じた。午後2時15分、ジャイルズ・スミスとランサムの部隊が動いて即座に撃退された。午後3時、タトルの師団はあまりに多くの損失を出して前進を中断したので、シャーマンはタトルに「これは殺人だ。部隊に外国為替証拠金取引
を命じろ」と告げた。この時刻までにスティールの師団がやっとシャーマン軍団の右手に到着し、午後4時、第26ルイジアナ・レダウトに対する突撃を命じた。スティール師団もシャーマン軍団の他の攻撃と何ら変わりない結果になった[18]。
マクファーソン軍団の戦線ではローガン師団が午後2時頃にジャクソン道路を下って再度圧力を掛けたが、大きな損失を出したので資産運用
は中止された。マクラーナンド軍団はクィンビー師団に増援されて再度攻撃を掛けたが、成果は得られなかった。北軍の損失は戦死502名、負傷2,550名、不明147名となり、今回は3個軍団がほぼ等しく損失を出した。南軍の損失は直接の報告が無いが、500名以下だったと推計されている。グラントはこの日のお粗末な結果についてその一部をマクラーナンドの誤解させるような伝言に帰せしめ、この方面作戦の間何度も苛立たせることになったこの政治家将軍に対する鬱憤がまた一つ重なることになった[19]。
歴史家のシェルビー・フットは、グラントが「攻撃を行ったことを悔やまなかった。彼は失敗したことだけを悔やんだ」と書いた[20]。グラントは渋々ながら包囲戦を布いた。5月25日、ジョン・A・ローリンズ中佐が特別命令第140号をグラントのために発し、「軍団指揮官は即座に通常の方法で敵軍を減ずる行動を始めること。ビックスバーグの防御力を弱め、守備隊を捕獲するためにこれ以上の人命が失われないことが望ましい。坑道や塹壕を掘り、あるいは前進砲台をつくるために地域を得るには、自然の地形の不均衡などあらゆる利点を利用すること。...」となっていた[21]。グラントはその自叙伝で、「私は通常の包囲戦を布くことにした。言ってみれば「敵の陣地を取るために」、またこれ以上損失を出さないために」と記した[22]。
北軍は市を取り巻く念入りな塹壕(当時の兵士達は「溝」と呼んだ)を作って潜り込み、南軍の要塞に段々と近付けていった。南軍の背面はミシシッピ川に面しており、川からは北軍の砲艦が砲撃して、南軍の兵士や市民に罠に嵌ったような状態だった。ペンバートンはミシシッピ川の数マイルをできるだけ長く保持すると心に決め、ジョンストン軍あるいは他の所からの救援を期待した[23]。
南軍には新たな問題が起こった。グラント軍の死者と負傷者がミシシッピの夏の暑さの中で横たわっており、死んだ人や馬の臭いが空気を汚し、負傷者は医療や水を求めて叫んでいた。グラントは当初休戦を求めることは弱さを示すものと考えて拒んだ。最後にグラントが折れて、北軍が負傷兵や戦死者を回収する間は南軍が砲火を止め、暫くはあたかも敵意など無かったかのように両軍の兵士が混じり合い、交歓し合った[24]。
グラント軍はビックスバーグを取り巻く12マイル (19 km)の環を埋め始めた。間もなく50,000名の北軍兵でも南軍の防御線全てを取り囲むことはできないと分かった。ペンバートンが脱出できる見込は悲観的だったが、ビックスバーグから南に向かう道路は北軍が守っていないものがあった。グラントは北軍の総司令官ヘンリー・ハレックからの援助を仰いだ。ハレックは素早く、グラントの要求に合わせるために西部の軍隊を移動させ始めた。この包囲線に到着した最初の援軍は、6月11日に到着したフランシス・J・ヘロン少将に率いられたミズーリ方面軍からの5,000名だった。ヘロン隊はマクファーソン軍団に付けられ、一番南に陣取った。次は6月12日にキャドワラダー・C・ウォッシュバーン准将が率いる第16軍団からの3個師団が到着した。これらは近くにあるコリンス、メンフィスおよびラグランジュから集められていた。最後に加わった重要な援軍はジョン・G・パーク少将に率いられたオハイオ方面軍からの強旱な第9軍団8,000名であり、6月14日に到着した。パーク隊の到着でビックスバーグの回りにいるグラント軍は77,000名となった[25]。
ルイジアナ州の南軍はジョン・G・ウォーカー少将の指揮で、グラント軍の供給線を遮断するために、6月7日にミシシッピ川上流でミリケンズベンドの戦いを起こした。これは主に訓練されていないアフリカ系アメリカ人部隊で守られ、劣った武器で勇敢に戦い、遂には砲艦の助けもあって南軍を撃退した。ただし、損失は大きく、守備側は652名を失い、南軍の方は185名だった。ミリケンズベンドの戦いでの敗北により、南軍救出の望みは慎重なジョンストン軍をおいて無くなった[26]。
我々は塹壕線を敵軍の大変近くまで引いていったので、手投げ弾を砦の中に投げ入れられるほどになった。我々の狙撃手が近くにいて見張っているので、敵は如何なる時にもその胸壁から頭を出そうとしない。町は完全に包囲された。我が軍の陣地は大変強固なので、私自身そこを放っておいて、守備隊を2回叩けるくらいの部隊を連れて20マイルや30マイルは外出できると思う。
?ユリシーズ・グラントからジョージ・G・プライドに宛てて、1863年6月15日[27]
6月の間はずっと、北軍が南軍に並行して塹壕を掘り、近付いていった。兵士達は狙撃手を恐れて工作物の上に頭を出すことも出来なかった。帽子を棒の上に付けて工作物の上に突き出すのが北軍兵のスポーツになり、一定時間内に南軍の銃弾が何発貫通するかを賭けた。
ペンバートンは多くの食用にならない軍需品と少ない食料と戦っていた。貧しい食事は南軍兵の上に現れていた。6月末までに発病したり入院するものが半分はいた。壊血病、マラリア、赤痢、下痢などの病気が兵士を蝕んだ。少なくとも一人の住人は夜通し起きていて、飢えた兵士が野菜畑に入らないようにしておく必要があった。絶え間ない砲撃の方が食料の欠乏よりもまだましだった。包囲戦が進んでくると、ビックスバーグ周辺を徘徊する馬、ロバおよび犬が段々と見られなくなっていった。靴の革が多くの成人にとって最後の命の綱になった[28]。