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■トレーダー
包囲戦の間、北軍の砲艦は22,000発以上の砲弾を町に撃ち込み、陸軍の大砲はさらにそれを越えた。砲撃が続くとビックスバーグの使える家屋も最小になった。町の主要部と南軍の前線との間にある尾根は暫くの間、市民達の仮の住まいになった。ビックスバーグの黄色粘土層の丘に500以上の洞穴が掘られた。家の構造が堅牢であろうと無かろうと、これらの洞窟を占領する方が安全と考えられた。人々は絨毯、家具および絵画を持ち込んでできるだき快適に生活しようとした。彼等は砲撃の合間に移動し食料を集めようとしたが、時には失敗した。これらの塹壕や洞穴の故に、北軍兵はこの町に「プレーリードッグの村」という渾名を付けた。町に対する砲撃の激しさにも拘わらず、全包囲期間に殺されたとわかる市民はほとんどいなかった[29]。 この包囲戦中にグラントが採ったipo の一つとして長引くライバル関係の決着があった。5月30日、マクラーナンド将軍は自画自賛のメモをその部下宛に書き、間もなく得られる勝利は大いに自分の功績だと主張した。グラントは6ヶ月間というもの、この方面作戦の初期、アーカンザス基地の戦い頃に衝突して以来、マクラーナンドが口を滑らすのを待っていた。1863年1月にマクラーナンドを する許可を得ていたが、明確な挑発を待っていた。グラントは遂に6月18日にマクラーナンドを解任した。グラントが念入りに事を運んだので、マクラーナンドは頼る伝もなく軍隊を離れた。マクラーナンドの第13軍団はハッチー橋の戦いで受けた傷から快復したエドワード・オード少将に渡された。1864年5月、マクラーナンドは遠くテキサス州の部隊指揮で復活した[30]。 もう一つの指揮官変更は6月22日に起こった。ペンバートン軍を前にすることに加えて、グラントは後方にいるジョセフ・ジョンストン軍のことも心配しなければならなかった。グラントはビッグブラック川橋に1個師団を置き、もう一つの師団は遠く北のメカニクスバーグまで偵察させ、どちらも自軍を遮蔽させるように行動させた。6月10日までに、ジョン・G・パーク少将の第9軍団はグラントの指揮下に移された。この軍団は、キャントンで軍を集めているジョンストンが包囲戦を妨害しないようにする特別任務の中核になった。シャーマンがこの任務に宛てられ、フレデリック・スティール准将が第15軍団を引き継いだ。ジョンストン軍が遂にペンバートン軍解放のために動き始め、7月1日にビッグブラック川に到達したが、シャーマン軍との潜在的に困難な遭遇を遅らせて、ビックスバーグ守備隊を救うには遅くなり過ぎ、結局はジャクソンに後退した[31]。 包囲戦の後半、北軍は第3ルイジアナ・レダンの下にトンネルを掘り、2,200ポンド (1,000 kg)の火薬を填めた。6月25日に南軍の前線を吹き飛ばし、その後で第17軍団のローガン師団からの部隊による歩兵攻撃が行われた。ジャスパー・A・モルトビー大佐の第45イリノイ連隊(「坑道先導連隊」と呼ばれた)が、直径40フィート (12 m)、深さ12フィート (3.6 m)のクレーターに容易に突撃したが、回復してきた南軍歩兵に止められた。北軍兵は動けなくなり、南軍兵も癇癪を起こして砲弾を穴に転げ落とすなど悲惨な結果になった。北軍の工兵が歩兵を解放するためにクレーターの中に砲郭を据え、間もなく兵士達は新しい防御線の中に戻った。この日の で残されたクレーターから、北軍の抗夫達は新しい坑道を南に掘った。7月1日、坑道は爆破されたが歩兵の攻撃は無かった。工兵達は7月2日と3日も、将来起こりうる攻撃のためにクレーターを4列縦隊で通れるように拡げた。しかし、その翌日の出来事でそれ以上の攻撃の必要性は無くなった[32]。 降伏条件を話し合うグラント(左)とペンバートン7月3日、ペンバートンは、ドネルソン砦の戦いの時のようにまず無条件降伏を要求したグラントにメモを送った。しかしグラントは考え直して、北軍の捕虜キャンプで3万人の飢えた南軍を養いたいとは思わず、全ての個人向け国債 の釈放を提案した。南軍の弱りきった状態、意気消沈し飢えていることを考えると彼らが再び戦おうとするとは想定できなかった。グラントは彼らが南軍の他の地域に敗北の烙印を抱えて帰るものと期待した。いずれにしても、それだけ大勢の軍勢を北へ送るとすれば、それに北軍は捉われっぱなしになり、何ヶ月も掛かったことであろう[33]。 降伏は古いオークの木によって正式なものとなり、「その出来事で歴史になった。」グラントの「個人的自叙伝」で、グラントはこの運の無い木の運命を次のように語っている その樹、根および枝の最後の痕跡が消えるまでほんの短い時間であり、その破片が戦利品として取られた。その時以来、同じ木が戦利品の形で「真の十字架」と同じくらい多くの木の紐を供えた[34]。 降伏は7月4日の独立記念日に最終的な形になり、その日であればペンバートンはアメリカ合衆国からより同情的な条件を持ってくると期待した。ビックスバーグ方面作戦はまだ幾つか小さな戦闘が続いたが、この要塞都市が陥落し、続いてポートハドソンが7月9日に陥落するとミシシッピ川は北軍がしっかりと掴むことになり、南軍は2つに分割された。リンカーン大統領は「水路の父は起こらずに海に流れる」という有名な宣言を行った[35]。 ビックスバーグの戦闘と包囲戦による北軍の損失は4,835名となり、南軍は32,967名(29,495名は降伏)となった[3]。3月29日からの方面作戦全体では、北軍が10,142名、南軍は9,091名が戦死および負傷となった。ペンバートンはその降伏した兵士に加え、グラントに172門の大砲と5万挺のライフル銃を渡した[36]。 伝説では、ビックスバーグが7月4日に降伏したために、第2次世界大戦のときまで、7月4日の独立記念日が祝われることはなかった[37]。 ビックスバーグ周辺の工作物は資産運用 国立軍事公園の一部として、アメリカ合衆国国立公園局によって保存されている。 ビックスバーグ方面作戦(ビックスバーグほうめんさくせん、英: Vicksburg Campaign)は、南北戦争の西部戦線で、ミシシッピ川で南軍最後の拠点である要塞都市ミシシッピ州ビックスバーグに向けた一連の操軍と戦闘である。北軍ユリシーズ・グラント少将が指揮するテネシー軍がこの強固な要塞を占領し、そこに陣取っていた南軍ジョン・C・ペンバートン中将軍を打ち破って、ミシシッピ川の支配を確立した。 この方面作戦は、1862年12月26日から1863年7月4日の間に、多くの重要な海軍の行動、陸軍の動き、失敗した独創的作戦および11の異なる戦闘で構成された。軍事歴史家達はこの方面作戦を2つの段階、すなわち「ビックスバーグに対する作戦行動」(1862年12月26日から1863年1月)と「グラントのビックスバーグに対する作戦行動」(1863年3月から7月)に分けている。 グラントは当初2手に分かれての接近を計画した。ウィリアム・シャーマン少将に任せた半分はヤズー川に進軍し北東からビックスバーグに迫る、グラントは残りの軍隊を率いてミシシッピ中央鉄道を下るというものだった。これらの初期行動のどちらも失敗した。グラントは多くの「実験」や遠征を行った。グラントのバイユー作戦と呼ばれるものは、ミシシッピ川を使ってビックスバーグ砲台の南に出ようとするものだった。この独創的作戦は全部で5種類行い全てうまく行かなかった。最終的に北軍の砲艦と輸送船がビックスバーグの砲台下を抜け、陸路ルイジアナ州に入ったグラント軍と落ち合った。1863年4月29日と30日、グラント軍はミシシッピ川を渉りミシシッピ州ブルーンズバーグに上陸した。念入りな一連の示威行動と牽制で南軍をごまかし、上陸は抵抗無しに行われた。その後の17日間にグラントはその軍隊を内陸に動かし、5度の戦いに勝ってミシシッピ州都ジャクソンを占領し、ビックスバーグを攻撃して包囲した。 ペンバートン軍が7月4日(ゲティスバーグの戦いでの南軍敗北の1日後)に降伏した後、7月9日にポートハドソンがナサニエル・バンクス少将に降伏し、ミシシッピ川全体が北軍の支配下に落ちた。これらの出来事は南北戦争の転回点と広く認められている。グラントのビックスバーグ方面作戦はアメリカの軍事史の中でも傑作の一つと考えられている。 ビックスバーグは南軍にとって大きな戦略的重要さがあった。そこが南軍の手にある限り、北軍が川を下ることを防ぎ、また南軍にとっては、農産物の供給を大いに頼っている川向こう西部州との通信が可能だった。ビックスバーグ市の自然の要害は理想的であり、「南軍のジブラルタル」という渾名も貰っていた。デ・ソト半島と呼ばれる馬蹄形をした川の屈曲部を見下ろす高い崖の上に位置しており、舟で接近することをほとんど不可能にしていた。ビックスバーグの北と東はミシシッピ・デルタ(時としてヤズー・デルタと呼ばれた)であり、南北に200マイル (320 km)、東西に50マイル (80 km)は実質的に侵入できなかった。ヤズー川上流約12マイル (19 km)ではヘインズ・ブラフに南軍の砲台と塹壕があった。ビックスバーグ西のルイジアナ州の土地も多くの小川やお粗末な田舎道ばかりであり、冬の洪水が広がり、要塞から見れば川の対岸であったので、これも接近が難しかった。 ビックスバーグ市は以前北軍海軍の攻撃を受けたことがあった。デヴィッド・ファラガット提督が1862年5月18日にニューオーリンズを占領した後で川を遡り、ビックスバーグの降伏を要求した。ファラガットはその意志を通すだけの部隊を連れて居らず、ニューオーリンズに戻った。さらに1862年6月には戦隊を率いて戻ってきたが、6月26日から28日に要塞を砲爆して降伏させようとして失敗した。ファラガットは7月の間ビックスバーグ市への砲爆を続け、その地域にいた数隻の南軍艦船とも小さな戦闘を何回か交わしたが、上陸を試みるまでには戦力が足りず、ビックスバーグ市を降伏させる試みを中止した。ファラガットは屈曲部、デ・ソト半島の首にあたる部分に運河を掘って要塞化された崖の下を迂回する可能性を調査した。6月28日、ファラガット支配下に付いていたトマス・ウィリアムズ准将が地元の労働力や兵士を使って運河を掘削する工事を開始した。動員された者の多くは熱帯病と熱中症で倒れ、7月24日には工事が中断された(ウィリアムズは2週間後のバトンルージュの戦いで戦死した)[1]。 1862年の秋、ヘンリー・ハレック少将が西部戦線の指揮官から北軍全軍の総司令官に昇進した。11月23日、ハレックはグラントに、ミシシッピ川を下ってビックスバーグに至るやり方を好むと指示した。ハレックのやり方では、この方面作戦にかなりの独創性、つまり好戦的なグラントが採る機会を残していた。ハレックは西部戦線を指揮していた夏の間にテネシー州メンフィスからビックスバーグに向けて陸路を迅速に進まなかったことで批判を受けていた。ハレックは海軍が独自で要塞を占領できると思っていたが、海軍はその任務を完了できるほど陸上部隊を持っていなかったことを知らなかった。1862年夏に成功したであろう事は、南軍が守備隊を十分に増強したために11月ではもはや不可能になっていた。 グラント軍はミシシッピ中央鉄道を南に下り、ミシシッピ州ホーリースプリングスに前進基地を造った。ビックスバーグの方向には2手に分かれた攻撃を計画した。主要な部下であるウィリアム・シャーマンには4個師団(約32,000名)を付けて川を下らせ、グラントは残りの部隊(約40,000名)を率いて鉄道沿いにオックスフォードまで進み続け、南軍をビックスバーグ市からおびき出してグレナダ近くで攻撃してくれることを期待して、そこで展開を待つことにした。 南軍側では、ミシシッピ州内の軍隊はペンシルバニア州出身の士官で南軍のために戦うことを選んだジョン・C・ペンバートン中将の指揮下にあった。ビックスバーグと州都ジャクソンには12.000名、グレナダにはアール・ヴァン・ドーン少将指揮下の約24,000名がいた。