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一方、政治的な力も働いていた。エイブラハム・リンカーン大統領は以前からビックスバーグの重要さを認識しており、「ビックスバーグがキーである。このキーが我々のポケットに入るまでこの戦争が終わることは無い」と書いていた。リンカーンもまた2方向からの攻撃を想定したが、川の上下からのものだった。タカ派民主党の政治家ジョン・A・マクラーナンド少将は自分なら軍隊を率いて川を下りビックスバーグを奪えるとリンカーンを説得した。リンカーンはその提案を承認し、同時にナサニエル・P・バンクス少将にはニューオーリンズから川を遡っての前進を望んだ。マクラーナンドは部隊の編成を始め、それをメンフィスに送った。ハレックはワシントンD.C.に戻るとマクラーナンドのことが心配になり、グラントに西部方面全軍の指揮権を与えた。マクラーナンドの軍隊は2つの軍団に分けられ、1つはマクラーナンド自身が、もう1つはシャーマンが率いた。マクラーナンドはこの処置に苦情を言ったが為す術は無かった。グラントはその軍隊を自分のものにしたが、この方面作戦の間続くことになるグラントとマクラーナンドの間の私的闘争における幾つかの操作の一つとなった。
以下の戦闘はCFD
方面作戦で「ビックスバーグに対する作戦行動」段階を構成するものである。
シャーマンは北東からビックスバーグ陣地に近付くためにヤズー川のジョンソン・プランテーションに3個師団を上陸させた。12月27日、北軍は強固に守られているウォルナットヒルに向けて湿地を通ってその前線を押し上げた。12月28日これら陣地を巡って数回の無益な攻撃が行われた。12月29日、シャーマンは正面攻撃を命じ、大きな損失を出して撃退されその後に撤退した[2]。
この期間、陸路を行くグラントの半分の部隊もしくじっていた。その通信線はヴァン・ドーンとネイサン・ベッドフォード・フォレスト准将による襲撃で妨害され、ホーリースプリングスの大きな補給所も破壊された。グラント軍はこれらの物資が無くては存続できず、陸路の前進を中断した。
1863年1月初め、マクラーナンドはジョージ・W・モーガン准将指揮下に徴兵した軍団(第13軍団)と共にメンフィスに到着し、ミシシッピ川を下る作戦を開始した。1月4日、シャーマンの第15軍団をその遠征隊に付属させるよう命令し、その32,000名の合流軍をミシシッピ軍と呼ばせた。このことはグラントに対する直接の挑発であったが、シャーマンは上官の命令に従った。シャーマンは初めに、ミシシッピ川とアーカンザス川の合流点からアーカンザス不動産投資
を遡ること50マイル (80 km)のアーカンソー・ポストにあるハインドマン砦に対する海陸合同作戦を提案した。この砦は川の北軍艦船を攻撃する南軍砲艦の基地になっていた。この遠征はグラントに報せること無く始められた[3]。
デイビッド・ディクソン・ポーター海軍少将が指揮する北軍戦隊が1月9日の夜にアーカンソー・ポストで軍隊の揚陸を始めた。この軍隊は川に沿ってハインドマン砦に向かい始めた。シャーマンの軍団が南軍の塹壕線を突破し、南軍は砦の防壁の中や近くの射撃壕に退いた。1月10日、ポーターはその戦隊を動かしてハインドマン砦に向かい、砲爆した後で薄暮に退いた。1月11日には北軍の大砲が川向こうの陣地から砦を砲撃し、歩兵隊は攻撃のための配置に付いた。北軍の鋼製被覆砲艦が砦に対する砲爆を始め、ポーターの戦隊は脱出を防ぐために砦の下を通過した。この包囲とモーガン隊による攻撃の結果、南軍は午後に降伏した。北軍の損失は大きく、この勝利がビックスバーグ占領に貢献するものではなかったが、ミシシッピ川を航行する北軍の艦船にとっての障害を取り除くことができた[4]。
グラントはマクラーナンドがグラントの承認無しに作戦を実行したことを喜ばず、その主目的であるビックスバーグから気を逸らすものと見なしたが、それが成功に終わり同調者であるシャーマンが提案したたことなので、懲罰行動は採らなかった。しかし、マクラーナンドにはミシシッピ川に戻るように命じ、ビックスバーグの北西15マイル (24 km)ミリケンズ・ベンドで1月13日に自ら方面作戦の指揮を執った。
その冬、グラントはビックスバーグに近付き攻略するために一連の独創性を発揮し、これが「グラントのバイユー作戦」と呼ばれている。その共通目的は、南軍の砲台下にあるミシシッピ川を直接接近する必要性無しに、ビックスバーグから射程内に軍隊を配置できる別の水路を使いあるいは建設することだった。
デ・ソト半島を横切るウィリアムズ運河は、1862年7月にファラガット提督とウィリアムズ准将が中断したものだったが、ビックスバーグの砲台を迂回して川を下る経路を提供する可能性があった。1月遅く、シャーマン隊は、海軍からリンカーン大統領がこの考えを好んでいると忠告されたグラントの要請で掘削を開始した。シャーマンはこの運河を侮蔑的に「バトラーの溝」と呼んだ(以前ベンジャミン・バトラー少将がウィリアムズを上流に送ってこの仕事をさせていた)が、やっと幅6フィート (1.8 m)、深さ6フィートのものだった。グラントはリンカーンからうち続く運河の状態に関する問い合わせに疑いもなく影響されて、シャーマンに幅60フィート (18 m)、深さ7フィート (2.1 m)に拡げるよう命令を出した。これがグラントの運河と呼ばれるようになった。しかし、この運河はミシシッピ川の水門学(すいもんがく)に基づいて適切に設計されたわけではなく、水嵩が上がると運河川上のダムを決壊させ地域は水浸しになった。この運河は後背地の水と堆積物で埋まり始めた。この計画を救うために絶望的な努力が払われ、2隻の大きな蒸気駆動浚渫船ハーキュリーズとサンプソンが水路を開こうとしたが、浚渫船がビックスバーグの崖の上から南軍の砲火に曝され、撤退した。3月遅くまでに運河工事は放棄された(グラント運河約200ヤード (180 m)の名残はルイジアナ州のビックスバーグ国立軍事公園によって保護されている)[5]。
グラントはジェイムズ・マクファーソン准将に、ビックスバーグ市の北西に、ミシシッピ川からレイク・プロピデンスまで数百ヤードの運河を建設するよう命じた。これができると、バクスターやメイヨーのバイユーおよびテンサスやブラックの川を通じてレッド川までの経路ができるはずだった。レッド川まで届けば、グラント軍はポートハドソンのバンクス軍と合流できた。マクファーソンは3月18日に航行できる水路ができたと報告したが、バイユーを航行するためにグラントに送られていた「通常のオハイオ川のボート」で8,500名の兵士を運ぶことができただけであり、あまりに少なくてポートハドソンの情勢を変えられなかった。歴史家のエド・ベアスは、グラントがそれが機能すると外貨預金
したことはなく、ヤズーパス遠征と最終的な作戦であるミリケンズ・ベンドから南に陸路を移動する事のために工事を放棄したことから、この出来事を「レイク・プロピデンスの無駄骨」と呼んだ。
次の試みは、ビックスバーグの約150マイル (240 km)上流、アーカンソー州ヘレナの近くでムーン湖に近いミシシッピ川の堤防を爆破し、ヤズーパス(ヤズーシティからメンフィスに至る古い道、ミシシッピ川からムーン湖までの経路を遮断した1856年の堤防の建設で短縮された)を通ってコールドウォーター川に、続いてタラハッチー川に入り、最終的にグリーンウッドでヤズー川に入ることで、ヘインズ・ブラフの上流かつヤズーシティの下流の黄土断崖の高地を取ることだった。堤防は2月3日に爆破され、ヤズー・パス遠征と呼ばれるものが始まった。ワトソン・スミス海軍少佐が指揮する10隻のボートにベンジャミン・M・プレンティス准将指揮の部隊を載せて、2月7日にこの経路を通る移動が始まった。しかし、低く垂れ下がった樹木が砲艦甲板の上のものを何でも破壊し、南軍はその経路を塞ぐためにさらに多くの樹木を倒した。このことで進行が遅れたために、南軍はグリーンウッドに近いタラハッチー川とヤロブシャ川の合流点近くに「ペンバートン砦」を素早く建設する時間ができ、3月11日、14日および16日に北軍の海軍を撃退した。北軍の動きは4月早々に崩壊した[6]。
ポーター提督は3月16日にビックスバーグの真北スティールズバイユーを経由してディア・クリークに至るヤズー・デルタを北上する動きを始めた。このことはペンバートン砦の側面を衝きビックスバーグとヤズーシティの間に軍隊を上陸させられるはずだった。樹上からそのボートを動物が攻撃し、この時も南軍が経路にある樹木を倒し、柳の枝がボートの外輪を使えなくした。この時北軍のボートが動けなくなり、南軍の騎兵や歩兵が彼等を捕まえようとした。投資信託
が南軍につきまとわれていたポーターに歩兵の援軍を送って撃退したが、ポーターの遠征はあまりに難しすぎると放棄された[7]。
グラントの最後の試みはダックポート上陸場からウォルナット・バイユーまで別の運河を掘ることであり、軽いボートはビックスバーグを迂回できることを目指した。運河がほとんど完成する4月6日までに水位が下がっており、最も軽い平底舟以外航行できなかった。グラントはこの運河も諦め、新しい作戦を練り始めた。
12月から3月まで、チカソー・バイユーの戦いやミシシッピ中央鉄道に沿った進軍を含みグラントによる7つの独創的作戦や「実験」は悉く失敗した。グラントはその自伝で、これらの実験は洪水があり病気にもなりやすい冬の間に兵士達を忙しくさせておくために実行したのであり、成功の期待は無かったと主張した。この主張は当時グラントが書いた通信文とは矛盾している。
ビックスバーグの近辺と要塞の概観、1863年バイユー作戦の全てが失敗だったが、グラントはその確固たる決断力で知られており決して諦めなかった。最後の選択肢は大胆だったが危険を伴うものだった。ミシシッピ川西岸を下り、ビックスバーグの南で川を渉り、南と東からビックスバーグを攻撃するかバンクスの軍隊と合流し、ポートハドソンを占領し、続いて協働してビックスバーグを征服するというものだった。ポーターは砲台の下をかいくぐり十分な砲艦と輸送船を商品先物取引
の南で確保する必要があった。一端下流に出てしまうと川の流れで速度が極端に遅くなるので、もう一度ビックスバーグの砲台の下を過ぎることはできないはずだった。
3月29日、マクラーナンドはその部隊で橋を建設し丸太道を造る作業に取り掛かった。彼等は進行するにつれて湿地を埋めて行き、4月17日までにミリケンズ・ベンドからビックスバーグより下流にあるルイジアナ州ハードタイムズの提案された渡河点までおよそ70マイル (110 km)の複雑な道を完成させた。
4月16日、月の無い晴れた夜に、ポーターは7隻の砲艦と3隻の物資を積み兵士は載せていない輸送船をビックスバーグの崖下に送った。音や灯りは極力出さないようにしていた。しかし準備の効果が無かった。南軍の歩哨が艦影を認め、崖上の砲台から大量の砲弾が発射された。視認性を高めるために川岸に炬火が灯された。北軍の砲艦が応射した。ポーターは南軍の大砲が仰角を抑えられないために主に北軍艦船の上の方に撃ってきていることを観察し、艦船を砲台の真下にあたる東岸に寄せさせた。非常に接近したので南軍の指揮官が命令を出す声も聞こえ、砲弾は頭の上を飛びすぎた。北軍戦隊はほとんど損傷無く生き残った。13名が負傷しただけで死者はいなかった。「ヘンリー・クレイ」号が航行不能になり水際で燃えた。4月22日、他の6隻の艦船が物資を積んで同じように通過した。1隻が通過できなかったが、戦死者は出なかった。乗組員は舟の残骸に乗ったまま下流に流された。