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■転売
半島方面作戦の第2段階は、リーが七日間の戦い(6月25日-7月1日)においてリッチモンドの東で激しい反撃を始めたことで、北軍にとっては後ろ向きの展開になった。これらの戦闘で南軍は意義有る戦術的勝利を挙げられなかった(最終日のマルバーンヒルの戦いは南軍の決定的敗北)が、リーの攻撃の粘り強さと、突然その西側に現れたストーンウォール・ジャクソンの「歩く騎兵」隊はマクレランのやる気を無くし、マクレランはその軍をジェームズ川の基地まで後退させた。リンカーンは後にポトマック軍をワシントンD.C.地域まで引き返させ、ジョン・ポープの北バージニア方面作戦と第二次ブルランの戦いを支援させた。バージニア半島は1864年5月まで比較的静穏であったが、この時はベンジャミン・バトラーがバミューダ・ハンドレッド方面作戦の一環として再度侵入した。 ハンプトン・ローズ海戦(ハンプトン・ローズかいせん、Battle of Hampton Roads)、別名モニターとメリマックの戦い(the Battle of the Monitor and the Merrimack)は南北戦争中に生起した海戦。この海戦は鉄板で装甲された動力軍艦(すなわち装甲艦)同士の歴史上最初の戦いとして有名であり、アメリカ合衆国海軍の革新的な設計の装甲艦「モニター」とアメリカ連合国海軍の装甲艦「バージニア」(これは合衆国軍艦「メリマック」の焼けた船体を改造したものである)が交戦した。主要な海戦は1862年3月8日から9日にバージニア州ハンプトン・ローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント (Sewell's Point) 沖で行なわれた。 戦闘は二日間続いた。一日目はバージニアの初登場であり、モニター抜きでの戦いだった。北軍の木造艦群は大損害を受け、その日は南軍の決定的優位のままに終わった。しかしながら、二日目にはモニターが到着し、「装甲艦の決闘」として知られる有名な戦闘が始まった。明確な勝敗は付かなかったが、海戦史において深い意義を持つ戦闘となった。この戦い以前にはほとんど全ての軍艦が木材を主な材料として造られていた。この戦いの後、船と海戦の様相は劇的に変化した。世界中の国家が自国の艦隊を先を争って外国為替 に変えたのである。なぜなら敵の砲撃に耐える能力において、装甲艦が木造艦より優れていることが明白に証明されたからである。 南北戦争の勃発当初から、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは合衆国を脱退した南部の州を合衆国に戻す計画を実行した。彼は強力な合衆国の海軍を用い、アメリカ連合国の大西洋とメキシコ湾沿岸を封鎖しようとし、戦争が激化すると封鎖を命じた。 ゴスポート造船所で燃える合衆国軍艦「メリマック」1861年春、地上兵力主体の南軍はバージニア州ノーフォークに迫り、ハンプトン・ローズの南側の地域を包囲した。合衆国海軍はノーフォークからエリザベス川を挟んだ対岸にあるポーツマスのゴスポート造船所を焼き払い撤退した。この際、造船所に残っていたフリゲート「メリマック」を含む9隻の船が破壊された。しかしながら、軽率さと混乱のため、メリマックは吃水線より上側が燃えたに過ぎなかった。 この撤退により、ハンプトン・ローズ周辺で合衆国が支配しているのは北側のバージニア半島、オールド・ポイント・コンフォート (Old Point Comfort) のモンロー砦 (Fort Monroe) のみとなった。海峡は北に向かって狭まっていたが、本土のモンロー砦は海峡の南にある人工島(後の羊毛砦 (Fort Wool) )の軍事基地によって補佐されていた。(※?) ノーフォークの占領は南部連合に唯一の大型造船所と数千の重火器を与えた。南軍准将ウォルター・グウィン(ノーフォーク周辺の防衛を指揮した)はノーフォークを守り、ハンプトン・ローズを制するという二つの目的でシーウェルズ・ポイントに砲台を建設した。 合衆国は封鎖を実行するために木造軍艦の艦隊をハンプトン・ローズに急派した。羊毛砦とモンロー砦はハンプトン・ローズから、チェサピーク湾と大西洋という二つの経路でしっかりと結合していた。しかしながらジェイムズ川とエリザベス川という内陸の水路は連合国海軍(こちらも木造艦を使っていた)が制していた。小競り合いはあったが、どちらの海軍も相手を打ち負かすことができなかった。1861年の残りと1862年の序盤を通じて、膠着が続いた。 装甲艦とは、防御のために厚い鉄板で覆われた軍艦である。世界初の装甲戦艦、フランスの「ラ・グロワール」は1859年に進水していた。とはいえ、船に装甲を施すために鉄を用いることは、南北戦争初期の北米ではまだ発展途上の技術であった。 1862年の初め、合衆国とFX の両政府はともに、敵方が対船舶用の装甲艦らしきものを造ろうとしていることに気付いた。スパイたちが情報を送ってきたのだ。双方は新技術で優位に立つことを切望し、また相手が先に完成させることを恐れた。 合衆国と連合国による最初の装甲艦は、現代の軍艦との比較において非常に奇妙な外観をしており、そしてまた互いにも随分と違っていた。ハンプトン・ローズへと歴史的な出航を果たした時、どちらの艦も、それぞれの設計者からすれば甚だ不満足な状態にあった。 「バージニア」1861年、北軍はバージニア州ポーツマスのゴスポート造船所から撤退する際に、メリマック (USS Merrimack) を焼却処分した。しかし艦は吃水線までしか燃えなかった。連合国の下で、造船所はその焼け残った船体を、上部構造を減らして再建し、鉄板で覆った。1862年2月17日、南軍は同艦を「バージニア」 (CSS Virginia) として再就役させた。 鉄板の装甲が敵の砲火の威力を無効化すると考えて、バージニアの設計者は艦に衝角(普通は古代のガレー船を連想させる兵器であって、現代の軍艦には縁がない)を装備した。 完成を目指す全力の努力にも関わらず、バージニアは出航時にまだ艤装員を乗せていた。そして通例の海上公試または航海訓練をしないまま、大急ぎで軍務に付いた。 詳細はバージニア (装甲艦)を参照 「モニター」「モニター」 (USS Monitor) は全く新しい設計に基づいた、そしてリンカーン大統領の支持を受けたプロジェクトであった。ジョン・エリクソン (John Ericsson) によるユニークな設計は、斬新な11インチ (28mm) ダールグレン式滑腔砲2連装の旋回砲塔を特徴としていた。こちらも(バージニアと同様に)水上への露出部分は低く、敵から見えるのは甲板のごく一部と砲塔だけであった。モニターの船体はニューヨーク、ブルックリンのグリーンポイント区にあるコンチネンタル鉄工所 (Continental Iron Works) で組み立てられ、そこで1862年1月30日に進水した。乾舷を増すために、装甲は本来の設計より減らされなければならなかった。だが、装甲を減らしたFX でさえ、バージニアの乾舷はたったの14インチ (35cm) に過ぎなかった。 ハンプトン・ローズ海戦の状況を示した地図 戦闘が始まったのは1862年3月8日の朝、連合国海軍の大きくやや扱いづらいバージニアがハンプトン・ローズに動力航行して来て、北軍の封鎖を打ち破ろうと行動を開始した時であった。 フランクリン・ブキャナンFX に指揮されたバージニアは、ローリー (CSS Raleigh) とビューフォート (CSS Beaufort) に援護され、なおかつパトリック・ヘンリー (CSS Patrick Henry)、ジェイムズタウン (CSS Jamestown)、そしてティーザー (CSS Teaser) に随伴されていた。 「バージニア」の衝角攻撃を受けて沈みゆく合衆国の木造艦「カンバーランド」バージニアは北軍の戦隊へとまっすぐに向かった。距離がカンバーランド (USS Cumberland) から1マイルを切り、封鎖船と陸上砲台の全てが砲火を開いたとき、攻撃を開始した。バージニアはカンバーランドの吃水線下に衝角攻撃を加え、同艦を即座に撃沈した。「水上にある限り、その砲座は雄々しく撃ち続けた」とブキャナンは勇敢な敵を称賛して報告している。 ブキャナンは次に艦をコングレス (USS Congress) の方へ転じた。カンバーランドに起きたことを見て、コングレスの艦長は艦を浅瀬に座礁させるように命令した(※?)。この時までには、ジェイムズ川の戦隊(ジョン・ランドルフ・タッカーの指揮下にあった)が到着し、コングレスを攻撃するバージニアと合流していた。この状態が1時間続いた。その後、ひどく損傷を受けたコングレスは降伏した。コングレスの乗務員の生き残りが艦から退去する間、北岸にある合衆国の砲台はバージニアに対して砲撃を開始した。報復として、バージニアの艦長はコングレスにred-hot shotと焼夷弾で砲撃を加えるよう命令した。コングレスは南軍の装甲艦による砲火が弾薬庫を爆発させたことにより、爆沈した。バージニアもまた損傷した。カンバーランド、コングレス、そして沿岸砲台による砲撃が煙突を穴だらけにしたため、元来の遅かった速度がより落ちたのである。二門の砲が使用不能になり、装甲板は数枚が剥落した。 一方、ジェイムズ川小艦隊は、戦闘に参加するべくモンロー砦を出て座礁していた(※?)ミネソタ (USS Minnesota)に注意を転じていた。バージニアは、コングレスの降伏に対処した後、損傷にも関わらずジェイムズ川小艦隊と合流した。なぜならばその深い吃水のため、バージニアは深刻と言えるほどの損傷を受けることがなく、そして暗闇が砲撃を効果的に行うことを妨げていたからである(※?)。バージニアは翌日に再来して北軍の艦隊を全滅させることを目論みつつ引き揚げた。夜の間は南軍が制海権を持つ水域に退いたのである。 この一日は、まさしくバージニアの独擅場であった。とは言え損失がないわけではなかった。衝角の一部がもぎ取られて、傷ついたカンバーランドの横腹に刺さったまま失われた。バージニアが沿岸砲台から撃たれている間、ブキャナン艦長はマスケット弾によって大腿骨を折った。彼はこの負傷によりケイツビー・R・ジョーンズ副長へと艦の指揮権を移譲することを余儀なくされた。ブキャナンの脚は後に切断された。 連合国海軍長官スティーヴン・マロリーは連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスへの手紙で、この戦闘のことを以下のように書いている。 艦隊の士官たちと兵たちの行いは……彼ら自身と連合国海軍に不滅の栄光をもたらしました。報告はとても興味深いもので、その詳細は必ずや熱情を掻き立て、我が軍の勇敢な水兵たちの士気を高めるでしょう。またこの報告はバージニアがかつて水に浮かんだいかなる船とも全く異なり、造船学上の新機軸だったことを思い出させるでしょう。本艦の最も重い砲は火器中の新機軸に等しいこと……その動力および操舵特性は未だかつて試みられた事がなく、将兵は船にも互いにもほとんど初対面だったこと……これら全ての不利な要素の下で、意思力の権化たる士官ブキャナンの活発な勇気および完全無欠な玄人の手腕、そして彼の部下たちの協力は、海戦史上で最もめざましい勝利を達成したのです。